聖徳太子ってどんな人?・・(^-^)
こんにちは・・(^-^)
マリア猫が二回帰ってきたのに、また雲隠れです・・(^-^)
法隆寺と聖徳大使の関係は?
法隆寺は、推古天皇と聖徳太子が607年に建立した寺と伝えられています。
日本書紀には、670年に伽藍が一屋も残さずに全焼したとされています。
それでは、聖徳太子とは、どんな人物なのでしょうか。
少し年長の人なら昭和初期には百円札、その後は千円札、五千円札、さらには一万円札を飾った人と言うでしょうが、その業績についてはあまり知られていません。
太子は574年(敏達3年)に用明天皇の第二皇子として生まれた人ですが、それは6世紀はじめに日本に渡来した仏教が少しずつ広まり、新しい文化として人々の心をとらえはじめた時代でした。
推古天皇とともに、蘇我馬子と強調して政治を行い国際的緊張の中で、遣唐使を派遣し、中国に学んで、冠位12階、17条の憲法を定めるなど天皇中心の中央集権国家の体制確立に尽くしました。
さらに仏教を取り入れ、神道とともに厚く信仰し興隆に努めました。
太子が長じて仏教の影響に強く染まっていくのは、必然だったとも言えるでしょう。
そんな聖徳太子が病に倒れた用明天皇の回復を願って創建したのが法隆寺ですが、天皇は建設半ばに崩御しました。
完成した法隆寺は、亡き天皇を供養する寺となりました。
太子は、法隆寺をとりまく斑鳩一帯を理想郷「天寿国」にしたいと願っていたといいます。
しかし、完成した法隆寺は、歴史の荒波の中にある寺でもありました。
622年(推古30年)に太子が49歳で亡くなると、その22年後、かねてより対立関係にあった蘇我入鹿の軍勢がかつては太子も暮らした斑鳩宮を急襲しました・・(^-^)
その結果、斑鳩宮と太子一族はこの世から滅び去ることとなります。
軍勢の攻撃は法隆寺には及びませんでしたが、太子一族の消滅は、法隆寺にとっては有力な後ろ盾が消滅したことを意味します。
巨大な寺院は、伽藍を維持していくだけでも莫大な資金を必要とします。
聖徳太子死後の法隆寺を待っていたのは、実は、とてつもない財政苦難の道でした。
だから、明治に多くの宝物が東京に流れることになったんですね。
また少し眩暈が?
昼からの健康麻雀に行けるかなあ?
今日も良い日でありますように・・(^-^)
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